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ESSAY

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薔薇色のメヌエット

自宅の留守番電話から「ヤマザキさんのコンサートに行きたいと思います。よろしくお願いいたします」というメッセージが聞こえてきたときはとても嬉しかった。はじめての方から申し込みがあると、客層が末広がりに広がるような気がする。3月の末に都内ホテルで行われた結婚式の披露宴で知り合った、女性のジャズシンガーからだった。
 2月の半ばに、まだ暖かかった冬のさなかに、クラッシックの歌手である、僕と同年輩の友人から電話があった。「私ね、友人の娘の披露宴で唄うことになったのよ。それで貴方を司会者として紹介しておいたから、まだはっきり決まったわけではないけれど、連絡があると思うわ
よ」という話だった。
 司会の件については、新郎のアメリカ人が「アメリカからも両親や友人が来るから、司会者は英語が話せなければ拙い」といって、僕には難色を示したらしい。ホテルでバイリンガルの司会者を頼んだところ、数人いるがあまりお勧めはできないと、やんわり断られたらしい。
 英語が出来る良い司会者があまりいなかったのだろう。
 フランス語が出来て、司会が出来て、歌が唄えて、本も書けるという人を知っているが、まれな存在に違いない。五反田に一人いるそうだ
 司会料金は一回10万円で、金持ちはお車代等を含め15万円払う。 知り合いだと8万円に負ける。本人はまだ未婚だが、だから最後まで未婚だと思うが、縁あって結ばれたら、自分の司会は5万円でやるといっている。
 僕を紹介してくれたクラッシックの歌手と、新郎新婦も揃ってミーティングを開くことになった。プロに進行の方法を尋ねたいというのだ。
 渋谷のホテルにある喫茶ルームでお茶を飲んだが、「司会者が日本語と英語で話をすると時間がかかり鬱陶しい。アメリカ人がいる席には英語の出来る日本人を配し、興味あるスピーチの時に通訳すればいいし、司会者が英語に訳する必要はない」というと、ようやく納得したよう
だった。
 もう一つの心配は、僕の年齢だったらしい。68才はあまり若くはない。そんな老けた司会者では、披露宴も盛り上がらないと心配したそうだ。それでも会ってみようと思ったのは、新婦が熱烈なポール・モーリアのフアンで僕がその司会者だと紹介されていたからだった。
 モーリアファンだから新婦もあまり若くはないが、きりっとした顔つ
きの、モーリアファンのわりには美しい人だった。
 アメリカ人の新郎は40代の後半だろうか、中肉中背で、クールな雰囲気だがミュージシャンといっても通るような感じの人だった。会社を経営しているが、趣味のジャズギターはプロ並みらしい。披露宴では新婦の為に作曲した曲をピアノトリオの伴奏で演奏するし、ミュージシャ
ンと、食事の合間に唄うジャズシンガーも手配済みだった。
 披露宴の日、天気予報では今夕から雨になると報じていたので、僕はタキシードの上にバーバリのトレンチコートを着て、いつもはタクシーに乗るところを駅に向かって歩きだした。タクシー代をケチったのだ。
 五反田から山手線に乗り、目黒、恵比寿、渋谷と、駅名を見ながら、披露宴での気の利いたおしゃべりを考えていた。
 突然反対の路線に乗っていることに気がきパニック状態になった。前にも乗り間違えたことがある。通常、この線に乗るときは渋谷方面に乗るので、考えもせず足の向くままに乗り、チョンボしたのだ。反対側の品川、新橋方面に向かわなければいけなかった。
 多少の余裕を見て家を出ていたが、間違えまでは計算に入れていなかったから、ホテル到着は最低30分の遅刻になると、脂汗を流しながら判断した。
 司会者は披露宴の1時間前までに行きスタッフとミーティングをする。そのミーティングに30分遅れるわけで、信用は失墜する。ホテルにとっては最大のお客である、その日最も幸せな新郎新婦が催す披露宴に、その進行を司る司会者が遅刻するなど、言語道断なのだ。
 現職の大臣が二人、前の大臣が一人出席し、その他お歴々がキラ星のごとく居並んだ、300人ぐらいの披露宴の司会をしたこともあるが、「すみませーん。まだ司会者が来ないんです」では話が通じないのだ。
 原宿駅で電車を降りた。どうしたら最短時間で日比谷まで行けるか素早く計算し、渋谷駅に戻り、地下鉄銀座線に乗り変え、虎ノ門で降りてタクシーに乗ることに決めた。
 自慢するわけではないが、今迄数えきれない大失敗を、瞬間的好リカバリーで乗り越えてきた。
 虎ノ門で降りてタクシーに乗る。ホテルに着くと30分の遅刻だった。
 幸いこの日の披露宴の前には、別室で、ウエルカムドリンクとでもいうのだろうか、出席者が食前酒など飲みながら、新郎新婦がおこなった結婚式のビデオを見る時間が取ってあったので、僕はもう、ずっと以前から到着していたような雰囲気を装いながら、さりげなく披露宴会場に入って行った。
 ピアノトリオが楽器のセッティングをし、ジャズ歌手がマイクのテストをしていた。ホテルのキャプテンやアシスタントは何処にもおらず、ほっとため息をついたのだった。
 披露宴がはじまった。
 アメリカでは、新郎新婦が入場すると、来賓はスタンディング・オベーションで迎えるそうだが、日本ではなかなか難しい。でも温かな拍手で迎えられた二人は、溢れんばかりの笑顔で幸せを表現していた。
 アメリカ式で媒酌人は無し。司会者から二人の略歴紹介もなしに、新郎の友人からスピーチがはじまった。新婦の友人代表は母親の友人だったが、新婦を知らない銀行の頭取などより、よほど暖かみのあるスピーチだった。
 「それではこの辺で、新郎新婦によりまして、ウエディングケーキにナイフを入れていただきます。入刀の瞬間には盛大なる拍手をお願いいたします。カメラをお持ちのご来賓の皆様は、ご遠慮なく新郎新婦のおそばにお寄りになりまして、お写真をお撮り下さい」
 敬語の「お」や「ご」が随分付いたが、コンビニの丁寧語よりはましだと思う。
 入刀の瞬間には司会者が「入刀でございます」という習慣になっている。そして二人のお気に入りの曲が流れるのだが.........。
 何とそれは、ポール・モーリアオーケストラ演奏の「薔薇色のメヌエット」だった。
 その曲が流れた瞬間、ぼくはこの数年味わったことがないような、誰をも巨大な幸せで包む乳白色の雲に包まれたような感覚を味わい、新郎新婦の顔でさえ霞がかかったように見えた。数十年の思い出が一瞬の間によみがえり、ポールが指揮し、全ミュージシャンが雲の中にいるのではないかと思ったぐらいだった。歓びは数秒間続いた。
 新婦がポールの大ファンだったことを思い出した。
 ステーキが出る時間になると、歌手が唄いだし、新郎が新婦の為に作曲した曲を、ジャズトリオを伴奏にギターで演奏し、「アイレフト・マイ・ハート・イン・サンフランシスコ」も唄った。
 僕は新婦との約束で、ポールが作ってくれたカラオケで「フォーミー・フォルミダーブル」を唄う約束をしていた。ポールとレイモンが一緒に編曲の仕事をしていた時代に作られた、シャルル・アズナブールの為の編曲を、ジル・ガンビュスがパソコンを駆使して作ってくれたものだ。続いて「バラ色の人生」をトリオの伴奏で唄いだしたとき、新郎新婦が僕のそばで踊りだした。2コーラスめには、アメリカからやってやって来た、新郎の年老いたご両親も踊りだした。何ともいえない暖か
な雰囲気だった。
 ご両親への花束の贈呈はなし。新郎が少し日本語で、そして流暢な英語でお礼の挨拶を述べたが、クールな外見に似合わず、涙声になり言葉も詰まると、アメリカの友人たちは、二人の幸せを喜ぶ野次を飛ばした。新婦も英語と日本語で挨拶をしたが、すぐに涙声になり、幸せすぎ
て瞳を潤わしていた。
 そしてお開き(来賓の退場)の曲は「For once in my life」だった。二人はこの言葉を指輪にも刻んだそうだ。
 お客様が退場すると宴会キャプテンから、「ご両家からサンドイッチが用意されていますので、お召し上がりになって下さい」と勧められた。別室に行くと、そこにはジャズ歌手が帰り支度をしていて、少しのあいだ話をした。彼女は会社勤めだが、趣味でジャズを唄っているそうだ。彼女ががアマチュアだとは思わなかった。

 有楽町の駅に向かって歩いた。タクシー代をケチったのではない。夜の日比谷をタキシードで歩きたかったのだ。
 今日一日雨は降らなかった。

 ジャズ歌手に留守番電話の返事をした。僕のコンサートに来てくれて嬉しいというと、「じつは、会社で披露宴の話をすると、山崎サンとは一緒に唄ったことがあるといって、同僚の一人がコンサートの案内状を見せてくれたんです。それでお電話しました」と答えた。その同僚はフランス語の一級検定に受かっている。
 僕を紹介してくれたクラッシックの歌手は、ジャズピアノでは伴奏が出来ないという理由で唄わなくなった。英語が出来ないから頼めないと思われていた僕の司会は喜ばれ、僕のコンサートには、ジャズシンガーが聞きに来てくれることになった。
 音楽を愛する人の関係は、どこかで輪になり繋がっている。

 注。「薔薇色のメヌエット」はポール・モーリアオーケストラのヒッ ト曲。レイモンはレイモン・ルフェーヴル。ジル・ガンビュスはポールのアシスタントで引退した後の指揮者。

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