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ESSAY

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入 院

今年の五月のはじめ、突然襲ってきた腰痛は我が腰に重大な被害もたらした。あまりに凄いので、インド洋津波の第二波が迷走し、五反田で上に上がって我が腰にとりついたのかと思った。
 最初の一ヶ月はトイレに行くにも苦しみ、緩やかに快方に向かい、六ヶ月後には快癒する希望が出てきたある週、四日間に三日マージャンをやった数日後、突然右足に脱力感を感じだし、日に日にその勢いを強める。恐怖感にかられ病院に駆け込み、即手術を勧められ決心した。
 ライブハウスの出演を数回、札幌の銀巴里に一週間、そのあと決めてあった新橋シャミオールでの自分のコンサートを終える明くる日入院、次の日手術と決まった。
 シャミオールのコンサートには何と、86人のお客様が来てくれた。定員は65人だ。モチロン、明くる日手術をするからこれが永遠のお別れなどと泣き言を案内状に書いて、同情を誘ったわけではない。だけど皆、何かを感じ取ってくれたんだろうか。
 終わってから、ポール・モーリアを囲んで親密になった方々と新橋のおでん屋で二次会になった。ポール・モーリアを偲ぶ会でもあった。
 ポールは一月前、81才で見事な人生に幕を閉じていた。
 家に帰ったのは零時を回っていただろうか。コンサートでのいつも繰り返すチョンボを大反省しつつ、いよいよ明日かと遠足に行く気分になっていた。
 
 12月19日(火)コンサートの明くる朝 
 10時に入院。 午後、恐怖の造影剤撮影が行われる日。
 なぜ恐怖かというと、造影剤を脊椎に注射され、非常に危険で大変痛いという正確な情報が入っていたからだ。
 ストレッチャーに乗せられ、廊下を回り、エレベーターに乗り、次々と変わる天井の変わらない景色を見ながら、「どうだ、ペ・ヨンジュも敵わないほど格好いいだろう」と、妄想の世界に入っていた。誰も知らないボクの欠点の一つなのだ。
 上に非常に明るそうなライトの設備がある部屋に到着。
 スターは常に照明に照らされている。いつもは上半身で今日は背中だけど、背に腹は替えられない。
 手術台に乗り替えさせられあたりを見渡すと、マスクをつけたセブンイレブンのアルバイトみたいなネーちゃんが数人いる。専門医はどこだと恐怖感にかられ、あたりを見渡すと、店長みたいのが一人いてほっと安心する。
 横向きになって背中を広げさせられ「では今から麻酔打ちます。すこしチクッときますよ」と、明るく優しいギャルの声で宣言される。「あとで痛いのを打つから雰囲気を和らげているんだろう。そんな声で何度人生にけつまずいたものか」、甘い過去に思いを馳せていると最初のチクッがきた。
 数分間、「いいんじゃない」とか「いいわよ」とかいう声が断続的に聞こえるが、威厳のある経験豊かな麻酔医らしい声は全くなし。「なんだか真剣味が足りないんではないか」とか、「こんな風だと大失敗するぞ」とか想像力は鰻登りに登った。
 どうやらレントゲンの映像を見ながら針の向き、深さを整えているのだろうが、こちらは想像するばかり。「恐怖の造影剤注入はいつくるんだろう」と思っていると、「ハイ終わりましたよ」とまた明るく優しい声が終了を告げた。
「そうさ、いつだって聞くと見るとは大違いだ」と、嬉しく納得したのだった。
 ボクの入った四人部屋の設備は狭いけれど文句なし。看護婦(今では看護師と呼ぶ。婦長はそのまま))は好感度抜群でお世辞抜きに美人が多い。
 ベッドはもちろんシングルだけど、頭と足の方の上げ下げ、高さなど全て調節できる。薄型テレビはアームで吊され、照明と同じように角度が自由自在。さすが近代化された大病院でインターネットの接続も整っていた。あとは明日の本番を待つだけ。
 リハーサルはない。
 睡眠薬を一錠もらいぐっすり眠る。
 水曜日。午前中執刀医から、背骨の構造の模型を見ながら詳しい説明があり、だいたい半分ぐらい自分の病気がわかるようになる。
 脊椎管狭窄症。「何でも質問していいですよ」と優しくいわれ、「はあ、何もありません。よろしくお願いいたします」と答えた。
 あまりしゃべらないことが、立派な人間にみせるこつなのだ。
 手術の時間は午後いちばん。昼前に自分のベッドで麻酔薬の注射。
「出かけますよ」と若い看護師ギャルが迎えに来て、ストレッチ上でま楽しげな雰囲気が盛り上がる。誰も知らないボクの欠点の一つなのだ。
 手術台に乗り、点滴がつながれいよいよ「はじまるな」と思うも緊張感は全くなし。ベッドでの麻酔薬が効いているのかもしれない。
 「眠くなりますよ」の声を聞く。グラグラーっとして10秒で意識不明。
 「終わりましたよ」の声で目が覚めると、そこは自分のベッドだった。
 実際の手術時間は三時間弱、感覚的には数秒の世界だった。
 「山崎さん、全てうまくいきましたよ」という執刀医の声に、もうろうとしながらも右腕を差し出して握手を求め感謝の気持ちを伝える。
 ボクが数年前まで国際的な活躍をしているアーディストの司会者だったこと、今はシャンソンを唄っていて、一昨日のコンサートには何と86人のお客様が入った、という思いを握手に込めるが、お分かり戴けるのは難しかったと思う。
 ドクターは、日本脊髄脊椎病学会の推薦医(300以上の手術の経験と論文、著作など、選ばれるには重要な審査が必要)として紹介されいる、日本で1000人ほどの指導的立場の医師の一人。
 東京大学医学部の卒業で(こういうときは何となく頼もしい)、つい最近テレビにも出演し、患者にも相当信頼されている人気医師だと、ネット情報や近所の噂で知った。当病院整形外科部長を務めている。
 その上最近の医療革命。ここは一流の大病院。患者は多少高齢でろれつが回らない場合があるが、体は馬車馬のごとく頑丈。そんなわけで、術前の不安感は塵ほどしかなかった。
 夕方五時前に終わった手術のあと、食事はなし。食欲もなし。ベッドに寝ているのだが背中の手術の場所が微妙に痛むので、臆病なボクは身動きが出来ない。固まりながら持ち込んだ本を読み出すが寝返りを打てないのが辛い。
 一時間ごとに看護師を呼び、寝返りをお願いするが、二人で来て、僕の敷いているバスタオルを両方でつかみ持ち上げ、「セイノ!」と声を掛け合って反対側に向かせてくれる。睡眠薬をもらい就眠。
 ここは九時消灯で、朝六時半には回りの明かりがつくが、自由度は抜群で読書がはかどる。
 木曜日。術後一日目、傷口の痛みは昨日と比べ「いくらかいいか」ぐらいで変わりなし。
 元からあった腰痛は、ベッドに寝ているため快復度がわからないが感じは良好。
 朝食は重湯、キャベツのお新香、もやしなど入った野菜の小鉢にうすいみそ汁。
 昼も夜も重湯。
 金曜日。二日目。回りの患者の情報では、二日目まで辛いという。
 今日からおむすび。お新香。うすいみそ汁。それに一品。
 三回ともおむすびがメイン料理。
 これで体力が維持できるなら、普段の食い過ぎはいったい何なんだろう。
 あり余る時間は読書とテレビ。
 読書がいかに楽しいか改めて知る。ボクの読むのはダン・ブラウンとかフォーサイスなどのミステリー活劇モノ、今読んでいるのは忍者が主役の「悪忍」。お見舞いの友人達に、おもしろそうな本のプレゼントをお願いした。自分が選ぶのではない本も興味をそそる。たくさん読めて怪我の功名だと思う。
 夜睡眠薬をもらう。
 土曜日。三日目。昨日より少しいい。あいかわらず傷の痛みがうっとうしいが、凄く痛いわけではない。看護師からは「辛かったら痛み止めを出しますよ。無理をして我慢はいけませんよ」と何回もいわれている。
 午後からリハビリルームに行く。まず「ベッドから車椅子に移動しましょうね」と優しくいわれ、気力を振り絞って移動を行う。
 ただベッドから足を降ろし、手で体を支え車椅子に乗り換えるだけだが、僕にとっては偉大なる一歩だった。
 リハビリ室では歩行器につかまり室内を数十周回り、あいまにスクワットを数十回行う。先生が指導するが、回数などは自分で判断する。
 気がつくと、以前からの腰痛はすっかりなくなっていた。
 ただ麻酔や数日間のベッド生活で足腰はすっかり弱くなるそうで、手術と筋肉の衰えによる痛みはしばらく続きそうだ。
 ギャル看護師が「お体を拭きましょうね」といって、ベッド回りのカーテンを閉める。
 浴衣の上半身を脱がし丁寧に拭いてくれる。モチロンやましいことはいっさい頭に浮かばない。これだけの人格を作り上げるのに今まで68年間かかったのだ。
 タオルの暖かさが心地よい。やがて下半身に移るが、あちらにはうろたえる様子は全くない。「ここはばい菌が入りやすいから気をつけなければネ」といった瞬間、ポコチンに強烈な熱さが伝わり、思わず「アチチチ!」と叫んだ。熱い蒸しタオルを持っていられず、僕のバベルの塔に放り投げたのだった。
 日曜日。四日目。大分いい。寝返りが一人で打てるようになる。これでだいぶ楽になった。
 リハビリが休みなので歩行器を使い自主トレに入る。廊下を往復しスクワットもする。
 洗面所に一人で出かけ、歯が磨け顔が洗える。そういえば尿管も抜けた。何という歓び。
 隣のベッドの、寝るとすぐイビキをかく、62才になる親父の奥さんが意外に美人なのだ。
 だから昼でも夜でも、寝るとすぐに聞こえてくる激しいイビキも、子守歌のように聞こえてくるから不思議だ。
 彼は数ヶ月前、酔った勢いで熱海駅のエスカレータの上から下まで転げ落ちた。途中におばさんが一人いたが上を通過したらしい。すったもんだで、駅員が救急車を呼ぼうというのを断り強引に帰宅。
 家に帰ったら女房がビックリし、すぐに近所の病院に入院させられたそうだ。
 慎重な検査の結果、医者から手術を勧められた。頸椎、胸椎に加齢による狭窄があるというのだ。
「ボクはさ、今まで150回の手術の経験があり、五回しか失敗していない」。自分は名医だから任せなさいといったらしい。五回が気になり、看護師に病院の評判を聞くと、「ここで手術しない方がいいですよ」と答えたそうだ。もちろんすぐ退院しこちらに移ってきた。
 月曜日。五日目。
 リハビリで歩行器に頼らず歩く。誰も知らないボクの欠点の一つに「調子に乗りやすい」というのがある。人より数倍のリハビリなど苦にならず、早く回復してみんなを驚かせたいという芸人魂なのだ。
 この頃から、看護師は一切面倒を見てくれなくなり、僕の前を素通りしていく。点滴や注射もなく、体温と血圧を測るだけ。医師の領域から離れ、自分の体力で回復する行程に達したのだ。面白くないけど嬉しいことでもあった。
 12月末、担当医師から、正月は自宅に帰ってもいいという外泊許可が出たが、ここは居心地が悪くない、居続けることにした。 
 入院17日後、一月6日(土)に退院。荷物をまとめ看護師さんたちにお礼をいい出て行こうとすると「山崎さん何やってるんですか」と呼び止められた。
荷物が多すぎるというのだ。そんなものを持って一人で退院するとは不届き千万、「なぜ迎えの人を頼まないのですか、最初の一ヶ月は充分注意するようにと注意したはずです」と怒られてしまった。
 家に帰り世話になった方々にお礼の電話をしたが、手術には反対だった方が大勢いたことを知った。「貴方が決めてしまっていたので何もいえませんでしたが、とても危ないと思っていました」。確かに脊髄の手術は、最近は脳外科の範疇に入ってきているという、最も危険を伴う場所であったのは間違いない。それにしても無事に済んで幸せだったと思う。
 お気に入りの目黒駅にある回転ズシを食べにいって、いつもより分量がはかどらないことに気が付いた。病院生活で食欲が落ちたのかとも思った。そういえば15年ほど前、交通事故で足を骨折して入院していたときは、病院食のご飯を《大盛り》と頼んでいたが、今回は丁度よかった。
 スシを食べたあと、すぐに歩き出しては体によくないと、《夕刊現代》を買ってベンチに腰掛けた。「ダイエットにはコルセットが一番」という記事が目についた。
 これで僕の食欲の少ない謎が氷解した。手術後、僕はずっと、腰を守るためのコルセットをしていたのだ。それで腹回りは締め付けられている。意識せずに
いたが、満腹感を得るには、お腹を押さえつけるコルセットはいい道具だと思った。
 暫くぶりにジムに行くと、予期せぬ大勢の人々から「退院おめでとう。よかったね」と祝って貰い、危なく涙が出るところだった。体重計に乗ってみると、普段の72,3キロから3キロ減っていた。病院食のおかげだと思う。これからもこの体重を維持するために、コルセットをつけていよう。
 8日(月)成人の日。浦和までマージャンをやりに行った。五反田から電車で一時間の旅。マージャンは常に同じ姿勢なので腰にはよくない。しばしば腰を移動したり、途中で立ち上がって屈伸運動をした。僕には鋭い学習機能があるのだ。
 家に帰ったのは夜中の12時過ぎだったが、疲労はあまりなかった。
 今回の腰痛では学んだ。
 気をつけて無理をせず、小さな歩幅で、ゆっくりゆっくり歩く。
 人生もこれで行こう。小さな歩幅でゆっくりゆっくり、とか分かったようなことをいいながら、もうマージャンをやっている。でもまあいいか。あれはダメこれはダメでは人生が面白くない。
 親切にしてくれた大勢の方々に深く感謝します。
 「どうもありがとうございました」

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