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ESSAY

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ポール・モーリアの想い出

夜中の二時半だった。最近覚えようと思っていたシャルル・トレネの「パリに帰りて」という名曲を、ベッド横のパソコンに取り入れたCDで聴いていた。《一ヶ月の旅行からパリに帰り、パリの街と郊外に住む母親に会える。何という人々の親切、何という微笑み。そして神様に、この世に存在している歓びを感謝します》という名曲なのだが、あまりにもフランス人すぎて、日本人の僕が唄うのはどうかと躊躇していた。
 ポン!とメール着信の音がして開けてみると、「フォーラムでポール・モーリアが亡くなったのを知りました」という知らせだった。
 「パリに帰りて」という曲を聴いていたので、「小さなシンクロか」(例えばかけようと思っていた相手から電話がかかってくるような)と思いながらも、「そうか、ポールは出かけていったか」としばし感慨に浸り、最後はどんな様子だったんだろう、何を考えていたんだろうと、思いは遠くフランスをさ迷いだしていた。
 ポールの死は考えたこともなかった。痩せ形だったし、メタボリック・シンドロームなどとは縁遠い存在で、少なくてもあと5,6年は大丈夫だと思っていた。フランスの男子平均寿命は76才だから、天寿を全うした81才の見事な人生だったと思う。

 僕の見た限りモーリア一家は長寿の家系。
 毎年ぺルピニアンの別荘に招待されよくお会いしていたが、弁護士をしていた兄は5才ぐらい年上でカクシャクとしており、特に会話力において脳の衰えを全く感じさせない。お喋りな女房にはまだ色香も残っており、この人の若さの秘密は女房かとも思っていた。
 ポールの姉マリアンヌは病弱ながら気遣いの多い優しい人で、ペルピニアンに来るたびにお会いしていた。
 ポールの奥さんイレーヌはポールよりたしか一才年上、もともとフランスのカタルーニャ地方の出身で、カタルーニャ語も理解する。バルセロナ・オリンピックで開会宣言されたのは、スペイン側カタルーニャ地方の言葉だった。サルバドール・ダリはスペイン側カタルーニャの出身。
 イレーヌの姉は10才年上で教員をしていた。彼女の今は亡き夫も教員で、僕の知っているこちらの家系はすべて教員だ。話しは飛ぶが、ピアニストのジャン・ベルナールの家系は医者で、親戚で医者でないのはベルナールだけだというが、音楽とユーモアで多くの人々に幸せの治療をほどこした。
 彼女(イレーヌ)の上の兄は、長い間アフリカで教員をしていた。例えばベドウインと共に砂漠を移動し、テントの中で子供達に授業を行う。海外で仕事をする公務員は早くリタイヤーできるので、この兄はだいぶ昔からぶらぶらしている。ところが妹にいわせると、退屈という言葉を知らないぐらい、楽しい日々を送っているという、頭脳明晰な年を感じさせない年寄りだった。
 マリアンヌ以外はカクシャクとしていた。全員が集まる食事の席での景色は圧巻だった。何といっても回りは全部年寄りで、それも中途半端ではなかったから、映画の一シーンみたいな雰囲気があった。
 ポールはときどき、「ハジメ、年は取るなよ」といっていた。
 「不可能だけど、ポールがいうんだから可能性があるんだろう。僕は年を取らないぞ」と決心していた。心に春を持てということだ。

 ポールがフランスで最も活躍した音楽家だったことはいうまでもない。「恋は水色」がアメリカのヒットチャートの一位を5週間続けた。変わって一位になったのはビートルズの「ヘイ・ジュード」だった。
 「恋は水色」はそれ以前、ギリシャのビッキーという美少女歌手によって、ユーロビジョンコンクールで創唱され、三位になった。彼女は日本でも知られるようになり、日本語で唱われたヒット曲もあり、僕は司会と歌で一緒にツアーをした経験がある。伴奏は16人編成のビッグバンドでかなり豪華なツアーだった。僕がポールと出会う路線はこのときから敷かれていたのかもしれない。
 「恋は水色」の作曲家のアンドレ・ポップが新宿厚生年金ホールに来たとき、ポールは僕を舞台に呼んで、突然英語で紹介しだした。僕は確実を期すため「もう一回フランス語で話して下さい」とお願いしたが、ポールはこのときの様子が好きだったらしく、ふり返ってよく話題にした。
 「恋は水色の」のヒットでアメリカツアーに招聘されときの話しを、イレーヌが面白く話してくれた。契約も済み出発日が近づいてくると。ポールはプレッシャーのかたまりになり、招聘元に電話してキャンセルを願ったそうだ。相手の方は「アメリカにくるアーティストは最初みなナーバスになります。大丈夫ですよ、何の心配もいりません」、と優しく心配をほぐしてくれたそうだ。
 アメリカでの初日、ポールは覚えてきた英語でお客様に挨拶した。怖々とはじまったコンサートで英語のスピーチが終わると、満場割れんばかりの大拍手がおこり、ポールは悪のりして、いわなくてもいいようなことを話し出し、奥さんは目を白黒させたという。

 外国人がアメリカでコンサートをするばあい、特に大編成オーケストラでは、アメリカのミュージシャンを何%か使わないといけないというユニオンの規則がある。
 これで初期のオーケストラに、ヴァイオリン奏者ジェーシー・クジマノやアメリカ人のミュージシャンがいた理由が分かる。
 その頃、アメリカ人マリンバ奏者がゲストととして来たことがある。体も態度もでかい嫌な男で、練習の為、マリンバを毎日ホテルの部屋に入れるように要求した。これにはスタッフもかなり参ったらしい。ステージのマリンバをばらし、次の会場に持って行くなら分かるが、ホテルに立ち寄って部屋に入れる。そして明くる日また会場に運ぶのだ。練習したいのなら、人より早く会場に行けばいいのに。
 ある日、コンサートの曲目の中で、ボンゴ・コンガ奏者ミッシェル・ドラポルトのソロがはじまった。そしてその日、舞台上のマリンバを見つけるや、マレットを取り上げ、ゲストのマリンバ奏者と同じ曲をいとも簡単に、その上ジェスチャーなども真似して弾きだしたので、ミュージシャン全員大笑いになっ
た。ゲスト奏者は、いかにも「難しい大曲だ」みたいな雰囲気で格好を付けて演奏していたので、ドラポルトのシンプルさと正確さはミュージシャンの度肝を抜き、ホテルの部屋で練習だとか何とかもったいをつけていたアメ公は、しっかり赤っ恥をかいたのだった。

 ポール・モーリアオーケストラ日本ツアーは1969年からはじまったが、30名のミュージシャンを連れ、スタッフを入れると総勢約50名が、40日、50日、多い年は二ヶ月にわたってツアーをし、コンサートは常に超満員というまるで夢のような豪華絢爛さだった。
 毎日、日本最大のスターと一緒に、フランス最高のミュージシャンに囲まれ、数千人の観客の前で仕事が出来る。子供の頃、待ちに待って出かけた修学旅行が、毎日続いているようだった。まるで夢のような、夢など長続きしないのに、夢のように去っていった30年だった。

 ポールと比較されるレイモン・ルフェーブルはフランスのテレビのまだモノクロの時代から大活躍していた。チャンネルが一つしかない時代に、毎週放映された長時間音楽番組の指揮を十数年間続けたのだ。当時レイモンと一緒にパリの街を歩くと、大勢の人から「ボンジュール・レイモン!!」と挨拶されていた。あまり有名になりすぎて、夏の浜辺でくつろぐことなど不可能になってしまったそうだ。
 突然ルグランが出てきて申し訳ないが、レイモンと息子のジャン・ミッシェルは大のルグラン贔屓で、特にレイモンは「ヤツは俺らとは違うぜ」とよくいう。
 ミッシェル・ルグランは映画音楽の作曲や、ジャズピアニストとして世界的に有名で、アカデミー賞やグラミー賞を獲得している。ボクはこの三人と仕事が出来たことを誇りに思っている。そして凄いことは、ルグランはトリオのピアニストとしても演奏活動を続けていることだ。六本木のジャズクラブでも、ルグランは白髪頭を振り乱して、若者達に混じりジャズのアドリブに挑戦する。
 晩年何もしなくなったポールに、もう少し大胆な野放図さがあれば、引退を決意した後も気楽なバンドを組んで、演奏にボランティア活動に有意義な人生を送ることができ、90才までも生きただろうとも思われるのだが、ポールには他の哲学があったと思う。
 老後を生きる努力をするより、面倒くさいから何もぜず、すべて運命に身をまかせる。「もうやりたいことは全部やったぜ」と開き直っていたのかもしれない。

 僕がはじめてこのオーケストラの司会をしたのは3回目の来日ツアーで1970年代はじめ、驚いたことに、ポールはかなり長く複雑で礼儀正しい日本語を覚えてきていて、コンサートのあいだ5,6回ぐらいはお客様にスピーチしていた。
 司会者の仕事は、コンサート前にポールの略歴を紹介し、後半、当時はどこでも行われていた、花束贈呈スポンサーの名前を紹介するぐらいだった。初来日当初は観客動員数ははかばかしくなかったが、3回目ではすでに毎日満員だった。
 次の年も同じように進行していった。ときどき日本語のフレーズを忘れ、用意してあるカンニングペーパーを見る様もお客の笑いを誘った。お客様に笑って貰うのが大好きなようだった。僕の方としては、ポールのスピーチは初日に全て書きとめ、二日目には暗記していた。プロ意識というものだろう。
 数日たった日曜日のコンサートでポールは日本語を忘れ、どういうわけかカンニングペーパーを見る変わりに突然僕を舞台に呼び、同じところを話せと命じた。覚えていたことを話し、「ポールは日曜日になると日本語が苦手になるようです」と付け加えると、お客の爆笑を誘った。
 明くる日ポールは僕を呼んで、「自分より上手な日本語を話せる人がいるのに、自分が話すのは愚かなことだ」といって司会を僕に任せてくれた。僕の咄嗟の仕事を見て100%信頼してくれたのだと思う。

 僕に指揮をさせたことがあった。二部のオープニングテーマ曲をポールが止めた後、次の曲に入っていったが、ある日曲順がかわり、二曲目の前に僕が話すことになった。
 「よし、ではハジメがオープニングテーマ曲を指揮して止め、続いて曲を説明しろ。それの方がシンプルだ」とポールが命令した。激しいシンコペーションのある曲は難しく、何とかオーケストラを止めることが出来たが、心臓もシンコペーションしていた。そしてこのような貴重な経験を一週間させて貰ったポールに、限りない感謝の気持ちを捧げた。素人が出来るようなことではないのに、信頼しまかせてくれたからだ。

 これからの物語はポーカーを知らない人には分かりづらく申し訳ない。
 コンサートが終わるとポール、イレーヌ、僕、そしてあと一人か二人ミュージシャンが入って、週に二、三日はポーカーをしていた。
 ポールが、「今晩はルームサービスで飯を食ってポーカーだ」とニコニコ笑って開会を告げる。レストランに行って美味しい食事を楽しむより、はるかにポーカーの方が好きだった。しばしば電車の移動中でも行った。降車駅が近づくと、僕等はこそ泥のようにあたりを見回しお金の精算をした。
 ポールはよく負けた。「ボクは人生でついていたから、ポーカーでつかないのは仕方がない」といつも負け惜しみをいっていた。
 久しぶりにコンサートが休みの日に、大ポーカー大会が開かれ、ワンゲームが流れに流れて(指定された役が誰にもないとき)(ポーカーを知らない方には申し訳ない)、テーブルの上はチップの山になっていた。配られた僕の札は「クイーンのスリーカード」でかなり強い役だったが、もう一回カードチェンジで
きる。ポールにはいい役がこなかったのかダウンして「ハジメの手を見てもいいか?」と聞き僕の後ろに回って座った。
 フランスポーカーは2から5迄の数字を省くので役が出来やすい。それとフラッシュはフルハウスより強い。
 クイーンのスリーカードは強いはずなのだが、場の雰囲気はそうでもなく、僕には絶対の自信はなかった。そこでポールが見ていることでもあり、二人だけの雰囲気を盛り上げようとフラッシュ狙いにいった。それも上手くいくと(奇跡)、ストレートフラッシュというポーカー最高の役になる。チェンジのため二枚のクイーンを捨てるとポールはビックリしたようで、後ろを振り向いたボクの視線にからみついてきた。テーブルの上には古タイヤの廃棄場みたいにチップが盛り上がっているのだ。ここは本来、クイーンのスリーカードを元に、二枚チェンジでフォーカード、もしくはフルハウスを狙うのが常道なのだから。
 二枚のカードが配られ自分のカードの上に置く。それを目の前で開くのだが一気には開かず、チョビリチョビリと開いて見ていく。スペードの黒やダイヤの赤、エースの左下がとがった形が徐々に見えだし、カードの見当が付いていく。これがポーカーゲームの最大の楽しみなのだ。興味があったら、スティーブ・マックイーンの「シンシナティ・キッド」を観て欲しい。
 おそるおそる見た一枚目は目的のカードが入ってきた。フラッシュとストレートの可能性があるカードだ。後ろでポールが生唾を飲む音が聞こえるような気がした。そして次のカードで、奇跡としかいいようのないストレートフラッシュが完成し、ポールは生涯このときの話しをした。
 コンサートツアーには常に同行したポールの奥さんイレーヌも、ポーカーが大好きだった。その日一日の苦労が全て忘れられるかのようだったし、若い頃には、こんなお金をやりとりするヤクザな遊びとは縁遠かったのだろう。エデンの園で禁断の木の実を食べ放題食べる。二人はいつも楽しそうだった。

 「僕は人生でついていたから、ポーカーでつかないのは仕方がない」といっていたが、確かについていた人生だった。
 ポールは車が趣味で、少なからず乗り換えていた。若い頃あこがれていたベンツを買い、古くて動かないのでエンジンを新しく載せ替え、内装を革張りにしたり、晩年は小型のBMWと最高級のBMWに乗っていた。
 レイモンが話してくれたが、この件についてポールは一切話しをしたことがない。凄く恥ずかしいと思っていたのかもしれない。
 ある日ポールは田舎の交差点でトラックとぶつかった。ポールの車は大破し、自身は奇跡的にかすり傷一つおわなかったそうだが、「ポールにはそういうところがある。いつも何かがいい方に展開するんだ」とレイモンが説明してくれた。

 食事について、ポールはグルメではなかった。駅弁のウナギが大好きだったし、普段はカレーライスを好んだ。カレーの最大の特徴である、早いのが好きだった。僕がカレーを食っていると見ただけで喜んでいた。 
 東京にいるときはしばしば、赤坂の高級ステーキハウス《ニュー浜》で食事をした。一人3万円は下らない豪華さだったが、ある日「高すぎる料理は趣味に合わない。2,3千円のステーキでも僕には同じお味だ」とメチャメチャなことをいいだしたが、意味は分かる気がした。いくらご招待でも、一般の常識からかけ離れすぎた食事を、いさぎよしとはしなかったのだろう。スシも好きで、昼と夜のコンサートの合間にはよく食べていた。ポールが食事をするとき、僕が陰のように付き添っていたのは、いうまでもない。

 ポールがレイモンと比べるとはるかに几帳面な性格だったことは間違いない。若い頃二人は二年ほど一緒に大量の編曲をこなしていた。
 シャルル・アズナブールやミレイユ・マティユなど重要なアーティストの依頼を受け、ほとんど寝る暇もないほど忙しさだったが、朝、几帳面なポールがレイモンの部屋を訪れ仕事をはじめ、夕方からは二人でポールのアパルトマンに移動して仕事を続けたそうだ。
 ボクが再びシャンソンを唱いはじめた10年ほど前、「昔はアズナブールの編曲を多くした。その中の曲でよかったらカラオケを作ってあげよう」といってくれ、「フォーミー・フォルミダーブル」「エ・プールタン」「悲しみのベニス」など5曲作ってくれた。当時ポールのアシスタントをしていたジル・ガンビュスがパソコンを駆使して作った大編成オーケストラの、唱っていると何とも気持ちがよくなる最高の伴奏だった。
 これを作りに当たり、ポールはフランスの著作権協会に電話し、このカラオケが著作権に全くふれないことを確かめている。

 以前、日本でコンサートツアーを行っていた、フランク・プールセルとレイモン・ルフェーブルオーケストラが同じミュージシャン使っているという問題が発生した。二人のマネージャーのアンドレ・ビレルマンが、深く考えずにミュージシャンの選択をしていたのだろう。
 一ヶ月に及ぶ長期なツアーで大編成の場合、ミュージシャンの力量から人柄まで考慮に入れねばならず、人選の苦労も多かったと思う。ツアーの場合もっとも重要なのは、技術やスター性以上に、実は《和》なのだ。
 誰か一人つんのめったのがいると、晴れた日まで曇ってしまう。「リンゴの樽には必ず腐ったのが一個入っている」というフランスの格言があるが、30人でも10人でも、5人集まっても、必ず一人妙なのが出てくるから不思議だ。
 そして個性の強いスター級プレーヤーには、人間的に危ないのが多かった。
 ある年ポールは、フランクやレイモンが連れてきていたミュージシャンを多く使い出したが、原因は分からなかった。おや、また同じ問題が発生したなと思っていると、数年後ポールがミュージシャン達に手紙を出した。
 「今後、ボクのオーケストラで仕事をしているミュージシャンが、他の来日オーケストラで仕事をした場合は一切採用しない」
 ポールの方がレイモンや、フランクの来日ミュージシャンを使いはじめ、その上自分のオーケストラで仕事をしたら、他では仕事をするなというのだから、この手紙はミュージシャンに強烈なインパクトを与えた。何も手紙など書かなくてもよかったのだが、かなり不評を買い、「ポールは帝王になった」と非難された。
 ミュージシャン達は、パリオペラ座やシンフォニック・オーケストラなどに所属していても、日本に来るときはフリーランサーでみな一国一城の主、手紙で採用するのしないのといわれるのはプライドが許さなかったのだろう。
 後年ポールは「何通か抗議の手紙もきたよ」といって、事務所の引き出しから出し見せてくれたことがある。普通だったら、こんな手紙などすぐにゴミ箱行きになるが、キチンと保管してあるのがポールらしいと思った。

 いつまでも記憶から消えないのがポールの笑顔だ。それも初来日のときの笑顔。キョードーの社長に呼ばれ自己紹介するとポールは、満面に笑み浮かべて僕に握手してくれた。40歳代半ばの男盛りだった。いらい徐々にこの人から笑みが消えていった。なぜだか理由はわからない。
 70年代の半ばだったか、体育館シリーズのツアーがはじまった。東京は武道館で昼夜二回公演、ここだけ普通のコンサート会場で行われた東京厚生年金会館では、土曜、日曜は日に3回行われた。日本中の体育館で演奏し、観客動員数はもの凄かったと思う。チケットを買うお客の列が、渋谷駅から表参道の《キョードー東京》の事務所まで続いたという。
 おりからオイルショックの時期で暖房が制限され、冬が近づくと体育館は凄く寒く、石油ストーブを舞台に並べ寒さをしのいだ。
 寒さのせいか、他に理由があったのか、ポールはいつも苦虫をかみつぶしたような顔で指揮していたので、僕等はマネージャーに注意するよう頼んだが、結果はかんばしくなかった。お客も満員で拍手も多い、何の不満もないはずのポールは、いったい何を考えていたのだろう。
 運命から最高のモノを与えられて、その歓びに唯々諾々と従うのが嫌だったのだろうか。夜になってポーカーがはじまるとリラックスしていたが、豪快に飲み大声でしゃべるようなことはついぞなかった。
 だからといって陰険で意地悪になったわけではない。お金の話しで申し訳ないが、コンサートツアーが終わると常に30万円ぐらいのチップを貰った。それが50万円になり、誰にもいわずこれが最後のツアーだと決めていた90年、ポールは僕にオートバイを買ってくれた。「ハジメのプレゼントを選ぶのは簡単だ、バイクを買ってあげる。どんな大きいのでもいいから探してこい」といってくれた。僕はホンダの、大きなスクーターのはしり「フュージョン」を買って貰った。
 そして帰国の前の日、出発準備も終わり、最後のポーカーを楽しんだあとポールから別室に呼ばれた。ポンと厚みのある封筒を渡され、「おやバイクを買って貰ったのにまたチップをくれる」と驚いたが、家で中身を見ると、50万円をはるかに超えていた。それまでは常に一万円札だけだったが、五千円札や千円札も混じり、「これはもう、日本円は全く必要がなくなった」という意味だと思われた。

 ポールには香港や台湾、韓国の演奏旅行にも連れて行ってもらった。その上「少ないけど、楽しんでおいで」と再びチップをくれた。
 韓国では地元プロモーターがキーセンパーティーに招待してくれた。街で食べるよりはるかに上等な料理を、美女たちに囲まれオンドルで暖められた最高の雰囲気の部屋で味わうことが出来た。ポールが食事をするとき、僕が陰のように付き添っているのだ。
 香港ではやはり最高級中華料理をご馳走になり、マカオに出かけてルーレットをした。 僕にははじめての経験でルールが漠然としている。知らないゲームで損はしないぜと、当たらず触らず眺めていたが、ポールは最初のチップの束を全て負け、興味があるらしく二回目を買い求めた。一回目の勝ちが転がり込ん
できたときポールは、札をクルーピエに投げチップをあげた。前にもゲームをした経験があるに違いなく動作があか抜けていた。二回目に勝ったときもチップをあげ、勝つ回数が多くなったとき、「あ、これはクルーピエが意識的に勝たしているな」と想像したが、はたしてクルーピエが自分の意志で玉を目的の数字に落とすことが出来るかどうかは、未だに結論が出ていない。
 以前ポールが住んでいたペルピニアンの近所にあるカジノのクルーピエと話したことがあるが、「絶対に出来ない」といっていた。
 台湾旅行にも招待された。出発の日ポールは、「いいか、ミュージシャン達には羽田に見送りに来たような雰囲気でサヨナラをいって、最後に飛行機に乗って、みんなをビックリさせて欲しい」。いわれた通り最後に乗ったが、誰一人驚かなかった。
 台湾の会場は印象的だった。それほど巨大ではないのだが、丸いローマのコロシアム風な競技場には、立錐の余地もない観客で埋まっていた。ミュージシャンが入場すると、台風が三つ四つ重なってきたような、地鳴りのような歓声が鳴り響き、これでポールが出て行ったらどうなるんだろうと心配になった。ポールが僕の耳元で「聞いただろう。これを知って貰いたかったんだ」といい、闘牛士のような雰囲気で、拍手と歓声と怒号のような叫びの渦の中に飲み込まれていった。ポールは神を超えた存在のようだった。
 コンサートの終わった夜、興奮冷めやらない僕は、いただいたお小遣いを握りしめて、夜の街に繰り出していった。

 ロシアでも中国でも、ブラジルやメキシコでもコンサートツアーを行ったが、日本が一番のお気に入りだったようだ。日本の中でもお客様では大阪、街では倉敷が好きだった。
 倉敷では時間があると川沿いの喫茶店にで出かけ、まだ日本では珍しかったエスプレッソを注文したものだった。

 想い出をふり返るときりがない。一つの想い出が、他の眠っていた想い出を揺り起こし、その度にポールが僕に話しかける。
 表情の少ない顔が何も語らず僕に話しかける。
 ポールはいっぱいの幸せの受け止め方が下手だった気がする。才能のない人が降ってわいたようなチャンスに戸惑うならわかるが、非凡な才能と、寝ずに働き命を削るような努力が実を結んだのだから、おおらかな気分で「良きかな我が人生」と大いにエンジョイできればよかったのだが、どこかに反権力的思いが強く、誰よりも有名になり、富を得る事を望みながら、それを否定する複雑な心理が存在していたような気がする。さもないと、体育館シリーズで苦虫をかみつぶして指揮していたポールが分からない。あくまでも僕個人の独断的判断だが。

 父がマルセイユの郵便局に勤めていた家は貧しく、とはいいながら音楽学校に行けたのだから貧しいとはいえない家庭に育ち、レイモンにいわせると、ポール、イレーヌとも思想的にはコミュニスト(共産主義)だったようだ。イブ・モンタンみたいに、お金持ちのコミュニスト。どこか辻褄が合わない。
 戦争中のポールの自慢話は、父の勤めている郵便局でモールス信号を打つとき、ピアニストの自分はあっという間に技術を覚えてしまった。ということだっ
た。
 ポールとピアニストのジャン・ベルナールは同じ町内の出身で、子供の頃のポールは少し切れやすい、危ない子供だったようだ。僕等が体験する欠点は、そのころから存在していたとジャンが話してくれた。

 僕が南フランスにある別荘に招待されるようになり20数年たつ。たいがいは滞在しているレイモンの別荘から、アヴィニオン駅までレイモンに送ってもらい、グランド・リンニュと呼ばれる、地中海ぞいをバルセロナ方面に向かう汽車に乗りペルピニアンで降りる。
 この駅はサルバドール・ダリがスペインの動乱から逃れて、最初に降りた自由の地だった。ダリは「この駅は世界の平和のモニュメント」と表し、今でも駅前には銅像が建っている。
 しばしばポールとジャンが迎えに来てくれた。僕にとっては至福の時だった。東洋の果てから来た一介の司会者の為に、尊敬する二人の偉大な音楽家が迎えに来てくれるのだ。
 やがてイレーヌと姉のフランソアーズ、別荘の管理人夫婦、などと迎えのコンビは少しずつ変わり、ポールの来る回数は少しずつ減っていった。ポールが衰えてきたのだった。

 別荘は僕にとって、下界から遮断された別世界だった。
 テレビで知らされる日本のニュースも、この国や他のヨーロッパの国で起こる夏の風物詩、巨大な山火事や洗剤の宣伝も、自分自身に日頃から絡みついてくる不安や不満も、あした何をしなければいけないといった約束事も、ここでは何の意味もなく心を平穏に保つことができた。
 朝、好きな時間に勝手に朝食を作る。僕の場合はコーヒーもオレンジジュースも自分好みのものを作る。ポールはときどき「このゲストは高くつく」とぼやいていた。ときどきはポールと町まで新聞を買いに行く。
 午前中の暖かな、でも強い日射しを避けてロッキングチェアーでくつろぎ読む本は、日本とは比較にならないぐらいページが進む。
 食事の醍醐味は、仲のいい友人大勢で、屋外で食べるにことにつきる。遅くはじまる昼食は毎日のメインイベントだった。ポーはあまり話さず、みんなの会話に耳を傾ける。誰かがあまり突拍子もない意見をいいだすと、ギョロッと眼を向いて、何もそこまで真剣にならなくても、と思うぐらい激しく反論を突きつける。
 ポールとはマルセイユ時代からの友人ロロがいると、反論のその反論を口角泡を飛ばしてしゃべりはじめ、不思議なことに彼の女房はいつも、夫がしゃべる後をなぞるようにシンクロして話し出す。
 僕は好きな料理をゆっくり食べる。難しい会話にはついていけない。牛、豚、羊、たまにはウサギ、僕はペンタドという鳥肉が大好きだった。なすやジャガイモのグラタン、あらゆる種類のソーセージ、時にはカレーライス、ヒラメのムニエールなど魚料理。枯れたブドウの枝で焼く新鮮な鰯やムール貝もあった。
庭の一角にある野菜畑で取れるトマトや、ブドウ、メロン、イチジク、桃......。そしてワイン。
 ときどきジャン・ベルナールと目が合う。もう大昔から、僕が遠慮なく食べるので監視しているのだ。「もう少し食べていい?」と聞くと、「今日だけだぜ本当に」と許可をくれる。もちろん彼だってゲストなのだが、僕たちだけに通じるジョークだった。

 午後、シエスタの後はペタンクをする。家の裏側に大きな木々に覆われるようにしてペタンク場がある。ポールの一番好きな娯楽だった。昔は下手なプレイをすると烈火のごとく怒った。車に乗ると人格が変わる人がいるように、ポールはボールを握ると人格が変わった。それも徐々に穏やかになり、怒らないのでこちらが心配になるほどだった。ポールが衰えてきたのだった。
 マネージャーのバランタンの二人の子供、上のクレマンと下のコリーヌは美しい子供達だった。お茶目なコリーヌは小さな頃から僕に肩車をしてもらうのだ
好きだった。「ハジメ!並足並足!早足早足!」などと命じては、危険に走り回る僕の肩の上で喜んでいた。コリーヌが15才を過ぎたあたりから、二人は別荘に来なくなった。
 バランタン(ポールのマネージャー)が54才という若さてガンに倒れた。ある夏、昼寝ばかりしていたロロは、実は病の苦しみに耐えていたのだった。翌年彼は別荘に現れず、あまりにも亡き夫の想い出が強すぎるペルピニアンに、妻はやって来なかった。
 数年後、「ここにいるとそのドアーを開けて、ロロが出てくるような気がするのよ。辛いわ」といっていた。

 ポールの「日の名残り」(主演アンソニー・ホプキンス)は、日本における最後のツアーで燃え尽きたに違いない。
 引退して3年目。夏の別荘に着くと、「ビックリしてはダメよ。ポールが静かになってしまったのよ」と出迎えたイレーヌがつぶやいた。
 その年、ポールが一気に老けたとは思わなかったが、好きなペタンクの回数も減り、テレビでサッカーの試合をよく見ていた。僕の好きな番組、フランスでは夏の特集で月曜から土曜まで、夕方7時から放映していた「クイズミリオネア」のフランス版は、二人で毎日見た。賞金が上がると少し興奮し、出場者があまり間抜けだと怒っていたが、僕に付き合って見てくれていたのかもしれない。

 僕はまた唱いだしていた。定期的に呼んでくれる札幌の銀巴里に出演していたとき、スシ屋で知り合った元大学教授が、ボケに関する話しをしてくれた。
 「大学教授は退職するとまず3年でボケる」というのだ。
 「国家の品格」を書いてベストセラーになった藤原正彦さんは「少なくても毎日一ページの本を読まなければ人とはいえない」といっていた。
 毎日本を読み、知識の宝庫のような大学教授が教職を去って、毎日何もせず3年過ごすとボケルというのだ。「俺みたいに人気のある先生はさ、大学を去っても生徒が教えを請いに来る。ゼミを開き、勉強の後ディスカッションになり、一杯飲む。だからさ、俺が思うにはコミニュケーションてのが人生で一番大切なんではないかい」
 ポールはそんなこと100も知っていたし、人とも交じり合おうともしなかったように思う。健康を保つスポーツなどは一切しなかった。

 昔から、「人気を失っても舞台に立っているアーティストの気持ちが分からない。僕は潔く引退したい」といっていた。いったことを実現し、カンバックし、まだ人気は続くと思われながらリタイアーした。
 抜群のタイミングだったと思う。
 有能なソリストはしばしば指揮者を目指す。ポールは編曲家やピアニストである以上に、観客の前でパフォーマンスする《指揮者》であった。
 最高に刺激的で楽しい人生だったと思う。強烈なエネルギーを必要とするが故に、僕等の知り得ない部分で燃え尽きていたのだろう。
 軟着陸して静かに別れを告げる。これがポールの美学だったのかもしれない。

 僕の最大のチョンボは90年代後半、大阪フェスティバル・ホールで行われたコンサートで、二時からはじまる一回目のコンサートに遅刻したことだ。前日確認し、その日は夜のコンサートだけと信じて町をふらついているところを、スタッフに探し出され、大慌てで会場にとって返し、タキシードを着ながら階段を駆け上った。
 二回目の出番に間に合ってステージに出て行くと、「おやヤマザキさん、ずっとお待ちしていましたよ」とポールから冷やかされた。ニコニコ笑っていた。

 ペタンクをしてもポーカーをしても、僕はポールのよい友人だったと思う。遅まきながら再びはじめたシャンソンの知識も褒めてもらったことがある。
 音楽では未だに初心者だが、人生の楽しさの片鱗が遅まきながら分かってきた。記憶力や腰痛が「おいもう若くはないぜ」と話しかけてくるが、「何くそ、負けるものか」と反発する。
 シャルル・トレネの歌のように、「何という人々の親切、何という微笑み。そして神様に、この世に存在している歓びを感謝します」と唱いたいぐらいだ。 
 だからもう少し待って欲しい。
 僕があちらに出かけて行ったら、ポールのいう台詞は分かっている。
 「おやヤマザキさん、ずっとお待ちしていましたよ」と、ニコニコ笑って迎えてくれるのだ。

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